生きるって?
「君の名を」を見て死ぬことについて考えた。
普段の生活ではあまり意識することのない死。
自分の人生には終わりがあるとリアルに考えるととても恐ろしい。
どうしようもないこの現実を受け止めきれない自分がいる。
絶対的法則になすすべない無力感。
自分はなんのために生まれてきたんだろう。
今この瞬間、この生き方をすることがいいのだろうか?
人生を消費していないだろうか。
何に時間を使うべきなんだろう。
子供の頃大人になるのがすごく嫌だった。
毎日遊べなくなって、退屈な日々に追われることがいやだ。
自分はそんな生き方はしたくない。
でも、
いざ社会に出てみると、
仕事に追われる日々。
何か大事なものを忘れてるような、
何か足りない、
でも何かわからない、
自分の行きたい先は、生きたい未来、いまはこれであってるの?
大人はみんなすごくて、
なんでも知ってると思って見た子供の頃。
その大人に追いつくことが楽しくて、
頑張って勉強したり、するのが好きだった子供の頃。
何が幸せ?
どこに向かって進めばいいの?
10年後のオレ。
答えがあるならヒントをください。
子供の頃に常にワクワクする生き方を
その方法を
今、知りたい。
ITは一見無機質だけど人を想うところから始まっている
スナップチャットがどうして人気なのか。
それはおそらく、人に寄り添っているからだ。
今目の前に写っている素敵な光景を離れている大切な誰かと同じように共有したい。
真実はわからないがそんな思いから生まれたのだとしたらすごく納得ができる。
サービスを生み出すのにもちろんアイディアは必要だ。しかし、小手先の新しさよりも、そっと人に寄り添うところから生まれるサービスの方が、愛用されるしロングセラーになるのではないだろうか。
失敗すること
大きな挫折は学びたいというエネルギーになる
失敗することは決して悪いことではない。
人は失敗を経験し苦い思いをすることで「もうこんな嫌な思いや悔しい思いはしたくない!」と思い、それをモチベーションに努力することができる。
失敗は悪いことではなく、一番良くないのは失敗に怯え挑戦しないこと。
行動すれば0が0.1か1にはなるが、何もしなければ0は0のままだ。
現状を変える一番の方法は行動すること。
それがわかっていると案外人生は楽しく生きられるのかもしれない。
調和する
調和するってどういう意味かご存知ですか?
全体がほどよくつりあって、矛盾や衝突などがなく、まとまっていること。
これ結構僕の目指すところに近いです。
「幸せとは ?」、「なんのために生きる?」、「なぜ働く?」、「将来とか夢って?」
明確な答えがでない問いが今の私には山積みです。
この問いに対する答えは人それぞれだと思うし正解も不正解もないけど、これらが「調和する」ことが私が望む状態、目指してるところなんだと考えてる今日この頃。。。
子供は不自由で自由、大人は自由で不自由
今の自分は自由だろうか?
今と子供の頃どちらが自由だっただろうか。
子供は不自由で自由だ。
小学生はお金もない、決められた時間に学校に行かなければいけないし、門限があったり、校区があったり制限が多く不自由だ。
一方大人はどうだろう。使えるお金は圧倒的に増え、門限もないし、校区もない。親に指図されずとも自分で好きに選択できる。子供に比べて圧倒的に自由になったはずなのにどこか不自由に感じる。
なぜだろう?
自由とは裏を返せば「選択しなければならない」ことである。
そして「選択する」ということは予想以上にエネルギィがいる作業だ。
大人になると自由が増えるに伴い、選択する機会も増える。
その機会があまりにも多すぎて、我々は選択することに少々疲弊しているのではないかと思う。
小学生の頃、レストランにいってメニューをワクワクしながら見ていた。
旅行先や運動会の役柄決めの時も心を躍らせていた。
小学生の頃あれほど憧れた自由が、いざ与えられてみると自由すぎて逆に身動きが取れなくなるとはなんとも皮肉なものである。
私が今思いつく解決策をあげるなら、ルールを決めるということ。
そう、ルールを決めてあえて不自由にするのだ。
何事も程よいことが一番だ。
小学生の頃は少し不自由すぎたし、大人は自由すぎる。
どちらも度がすぎるとかえって不便だ。
だから、もし、「選択すること」に疲弊したならルールを作ればいい。
「メニュー決めで迷った時は安くて量が多いコスパが多いものを注文する。」
「交通手段で迷ったら安さよりも速さを優先する。」
「メールは朝一の30分にまとめて返す。」
なんでもいいからルールを作ることで少し「不自由」になることが私たちが「自由」になる一番の方法ではなかろうか。
ものの価値は比べるものがあって初めてわかる
ものの価値は比べるものがあって初めてわかる。
りんごとバナナどちかが美味しいかを議論する時、両方食べたことがなければ議論にならない。
コミュニティ
失って初めて気づく
東京に来て早いもので9ヶ月がたった。
今日は気づきについて話そうと思う。
一見無駄なことをするメリットは気づき
どこの誰が言った言葉かは忘れたが、最近ようやくこの言葉がわかるようになってきた。
東京で週5日インターンする生活を繰り返して感じたこと。それは以前より接する人やコミュニティの数が圧倒的に減ったということだ。大阪にいた頃は、大学に行けば大学のコミュニティがあり、ゼミの友達、教職の友達がいた。フットサル仲間もいれば、バイトの友達もいたり、学生団体や中学の同級生など人に囲まれていた。もちろん家に帰れば家族もいた。大阪にいた頃はそれが当たり前で、日常でありそこに何の「価値」も感じていなかった。
一方今はどうかというと、平日に会う会社の人たち、シェアハウスの人たち、それに加え2週間に1回会うパトロゴのメンバーぐらいだ。
以前に比べ人と会う機会が圧倒的に減ったこともあり、最近「孤独」を感じるようになった。
別に「孤独」が悪いとは思わない。むしろ何かを素早く実行する時は一人もしくは少人数で実行したほうがいい場合もある。
ただ、問題なのは自分が求めていない時に「孤独」になることだ。
そして、一緒にご飯を食べる人がいることがどれだけ幸せなことか最近ひしひしと感じる。